山本 崇
今年のパリ祭についての報告文を書くようにお願いされていたのだが、日々の雑事に追われて、すっかりと忘れていた。ときどき思い出しては早く書かねばと思ったりもしていたのだが、私はずいぶんと筆不精でもあるので、ついつい後回しにしているうちに、8月半ばから想像以上に仕事が忙しくなってしまい、今回やっと筆を取ることとなった。
今年の山口日仏協会のパリ祭は7月18日にYCAM山口情報芸術センターで開催された。海の日の祝日を含む3連休の最終日だ。3連休最終日だとYCAMの駐車場は満杯だろう。さいわい当日は朝から曇り空で、それほど暑さは厳しくなかった。ならばと、市役所近くにある自分の事務所に車を停め、そこから歩いてYCAMまで行くことにした。午前中に事務所で少し仕事をして、昼食を一の坂川沿いのカフェで摂り、そこからは歩きだ。のんびりと散歩がてらに歩いていたが、さすがに30分以上も歩くとかなり汗をかいてしまった。
イベントのメインは映画『アネット』の観賞なのだが、その前に1時間程度、山口大学のドボアシュ先生が同作について解説してくださった。私はこの映画について何の予備知識もなく参加したのだが、同作はミュージカル映画だという説明を受けた。ミュージカル映画というと『サウンド・オブ・ミュージック』くらいしか思い浮かばないが、先生はさすがに映画通ということでいろいろなミュージカル映画の作品名を挙げられていた。また、ミュージカル映画では俳優が歌っているわけではなく、別の歌手、それもそこそこ実力のある歌手が歌唱を担当して、それをいわゆるアテレコするとのことだった。映画の中で、演者が踊ったり、激しい動きをしているのに、まったく声が揺れていないのはそういう理由なのかと納得した。そう考えると、歌って踊れる今日日のアイドル歌手やアイドルグループなどもきっと同じなのだろう。前々から何となくそうではないかと思ってはいたのだが。もっとも、この場合は自分たちがスタジオで録音した歌を会場などで流してステージにいる歌手は声を出していない、いわゆる口パクということになるのだろうが。
映画『アネット』に関連してドボアシュ先生が話されたことの中で特に印象に残っているのが、映画『スター誕生』との関連性に触れたところと人形が登場人物として出ているということの2点だ。前者の映画に関して私は観たことがないのだが、簡単に言うと、自分の妻が大スターになることで、元々人気俳優だった夫が転落の人生を送るというものらしい。夫が妻よりも稼ぎが少ないとか人気がないということは、洋の東西を問わず男性にとっては受け入れがたいことのようだ。私自身は夫婦のそれぞれが自分に与えられた役割をきちんと果たしていれば所得の多寡や人気など些末なことであるように思うのだが、とりわけ芸能の世界で生きる人々にとってはそう簡単に割り切れるものでもないのだろう。今の日本の芸能界にも少なからず夫よりも妻のほうが人気俳優あるいは人気アイドルであるカップルがいるが、彼らは自分たちの夫婦像をどのように考えているのだろうか。私にも一応配偶者はいるが、夫婦の所得に大きな差はないのであまりこういった視点を身近に感じることができず、他人事のようにしか感じられないのが残念だ。いや、幸いといった方が適切かもしれない。
一方、作中人物を人形で表現するという手法は、今回の解説の中で初めて知った。ただ、ドボアシュ先生には大変申し訳ないことであるが、ほかのことに気を取られて少々上の空で聞いていたため、その意図するところが何であるのかがよく分からなかった。
解説の最後の方では、現代フランスの事情についてもお話しいただいた。パリ祭の行事として行われたものであるので、本場フランスのパリ祭の話がメインであったが、私が一番感心したことは、本場のパリ祭の話ではなく、今日のフランスでは誰もマスクなどしていないということだった。フランスでもコロナの第7波は襲来しており、毎日多くの人が感染し、命を落とす人も少なくない。にもかかわらず、彼らはマスクをすることなく生活している。「コロナで亡くなる人もいますが、そういう人はコロナに罹る前から病気なのです」との言葉には思わずうなってしまった。
一方、日本はどうだろう。真夏の暑いさなかに屋外でマスクを着けて歩いている人を多く見かける。胸部に疾患を抱える私はマスクをして歩くと非常に息苦しくなってしまうため、極力マスクなしで外出しているが、とても後ろめたい気持ちになる。フランス人の考え方がとてもうらやましく感じる。
そんなことはともかく、ドボアシュ先生の解説を聞いた後は、いよいよ映画『アネット』の観賞である。私は若いころから映画観賞というものにほとんど興味がなく、正直今回の映画観賞もあまり気乗りがしなかった。実際、上映が始まってしばらくは、登場人物がことごとく歌に合わせてセリフを言うものだから、なんて落ち着きのない映画なんだと少々辟易していた。また、登場人物の夫婦のかなり生々しいシーンもあり、うんざりしていた。あの場面の必要性をいまだ疑問に思っている。映画のタイトルとなっているアネットの父親は喜劇役者であるようだが、その舞台の場面などは、いったい彼のステージのどこがおもしろいのか理解に苦しんだ。ただ、この映画では父親の役者としての才能など大して重要ではなかったのだろう。映画を見る人が彼の舞台を面白いと感じようが、つまらないと感じようがそこは関係ない。一流喜劇役者が凋落していく様を克明に描くことが主眼であったのだ。そのことに気づいてからは、作品にかなり引き込まれていった。
人気喜劇役者と人気女優の結婚。そしてアネットの誕生。さらに、アネットは人形である。この作品の中でアネットを人形として登場させた意図については映画を見終わったあともいろいろと自分なりに考えていた。作品名は『アネット』であるが、この映画の主人公は明らかに彼女の父親である。そうするとアネットはあくまでも父親の栄枯盛衰を描くうえでの単なる一装置に過ぎない。現実の子供を登場させると映画を見る人の視点が主人公ではないアネットの方に向けられやすくなる。それではこの映画を製作した監督の意図とずれてしまう。そうしたことを考えると人間としての属性をほとんど感じられない無機質な人形をアネットとして登場させることが最善の方法だ。そのように制作陣が考えたのではないだろうか。
映画の最後で、刑務所に収監されているアネットの父親のもとに彼女が面会に訪れる場面がある。この時のアネットはもはや人形ではなく生身の人間だった。生身の人間として登場したアネットから父親に引導を渡すような言葉が向けられるのであるが、その発言の内容を考えると、この場面だけはやはり人形のアネットではなく、生身の人間としてのアネットを登場させる必要があったのだろう。そうすることで救いのない絶望感を見ている人に与えることができたのではないだろうか。
この映画を観賞し終わったとき、私は、映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を思い出した。同じくミュージカル映画であるが、それぞれのストーリーはまったく違う。しかし、どちらの作品も最後の場面での絶望感や救いのなさが非常に似ているように思った。
今年のパリ祭の内容については、私としてはおおむね満足いくものであった。ただ、参加者が全員協会員であったことは残念に思う。これはいろいろな事情がありやむを得ないことではあるのだが、協会の活性化や若返りを考えると、外部の人の参加も積極的に受け入れていける態勢を今後整えていく必要があると感じる。